飯塚高史は新日本プロレスで、鈴木軍の極悪海坊主としてファンを恐怖の渦に陥れてます。
言葉らしい言葉を発することもないため、その素性を知る人はかなり少ないかと思われます。
しかし、ファンの間では「飯塚高史はいい人で優しい」という情報も見られます。
果たしてその真相はどうなのか?
この記事では、飯塚高史はいい人なのか、プライベートや昔の姿を通して考察します。
飯塚高史の本当の性格について知りたい人は必見です。
飯塚高史のプロフィール
出典:新日本プロレス
飯塚高史は1966年8月2日生まれの51歳。(2018年5月現在)
北海道室蘭市出身です。
いぶし銀という言葉が似合うレスラーでしたが、2008年に天山広吉との友情タッグを自ら裏切り、ヒールユニット「G・B・H」に加入しヒール転向を果たします。
坊主頭に髭を生やし、アイアン・フィンガー・フロム・ヘルを凶器として持ち歩く、現在の姿になりました。
現在は鈴木軍のメンバーとして活動しています。
飯塚高史はいい人なのか
飯塚高史は、テレビ朝日のプロレス番組「ワールドプロレスリング」の中継がある新日本プロレスの興行で、入場時に実況の野上慎平アナウンサーを襲撃。
何枚もスーツを引き裂いてしまう、無慈悲ぶりを発揮していました。
しかし、古くから飯塚高史を知る人がこぞって口にするのが、「飯塚高史いい人説」です。
果たして飯塚高史がいい人というのは、本当なのでしょうか?
プロレスでない部分で、飯塚高史のいい人ぶりが伺われる情報がありました。
飯塚高史はももクロとノリノリで絡むいい人!
飯塚高史は、アイドルユニット「ももクロ(ももいろクローバーZ)」と共演したことがあるのです。
ももクロは、言わずと知れた国民的大人気アイドルです。
5人組としての活躍が有名ですが、2018年1月21日に有安杏果が脱退してからは4人組での活動となっています。
凶暴性の権化とも言えるほどの怪物である飯塚高史が、国民的なアイドルと共演するなんて、常識では考えられないでしょう。
あなたが人気アイドルのマネージャーだったとしたら、アイドルを飯塚高史のような男と共演させたいと思いますか?
しかし、実際にももクロは、飯塚高史との共演を果たしています。
ももクロの公式YouTubeで、『ザ・ゴールデン・ヒストリー』という曲のPVを公開していますが、そのPVに飯塚高史が出演しています。
飯塚高史の登場シーンは、4分25秒~5分24秒、7分2秒~7分4秒です。
飯塚高史は「箱の中身は何だろうな」ゲームで、自ら箱の中に入ったのです!
最後には、箱を吹っ飛ばして暴れましたが、ももクロならではの面白いPVの仕上げに一役買ったことは、動画から充分に伝わってきました。
国民的アイドルのPVの撮影現場を盛り上げることは、いい人でなければできないでしょう。
プライベートの部分が見られなくても、飯塚高史がいい人である一面を垣間見ることができます。
飯塚高史の嫁は誰?
飯塚高史のプライベートについてですが、飯塚高史が結婚しているのか気になる人も多いようです。
ずばり、飯塚高史は結婚しています。
飯塚高史とタッグを組んでいた、AKIRAの元奥さんである、佐伯玲子さんのコラムから引用します。
タッグパートナーだった「飯塚孝之(現:飯塚高史)」選手の結婚披露宴に2人そろって出席したことで、プロレスマスコミにも周知となりました。
結婚の事実は掴めましたが、飯塚高史の嫁がどんな人なのかを知ることはできませんでした。
噂レベルではありますが、お子さんもいるようですね。
飯塚高史の年齢からすると、成人近いお子さんがいてもおかしくはありません。
飯塚高史の遺伝子を受け継いで、プロレスラーを目指している可能性もあるかもしれないですね。
飯塚高史のプライベートとは
スキンヘッドと強面の風貌から、飯塚高史のプライベートの様子が気になります。
目撃情報を探してもほとんど情報がなく、飯塚高史本人からプライベートが語られることもありません。
プライベートではありませんですが、貴重な飯塚高史の会場入りの様子を捉えた画像をご覧ください。
会場入りの飯塚 pic.twitter.com/4J5lfqnIVg
— 芝浜 (@dadgad147) 2014年4月10日
矢野&飯塚サンがタクシーで会場入り。さすがにサインをお願いするツワモノはいない(笑) #noah_ghc pic.twitter.com/U4uqkS25RJ
— YUJI (@yuji_icchauzo) 2013年4月14日
飯塚高史のプライベートを目撃しても、怖すぎてサインや写真をねだる事はできなさそうですね 笑
飯塚高史の昔と現在までのストーリーを知ろう!
前述の通り、飯塚高史がヒールになったのは2008年からです。
それまでは生粋のベビーフェイスでした。
飯塚高史が新日本プロレスに入門したのは1985年。
つまり今から30年以上も前です。
1986年11月2日に、本名である「飯塚孝之」の名前でデビューしました。
この時の相手である野上彰(現・AKIRA)とは、後に「J・J・JACKS」というタッグで活躍しました。
しかし、飯塚高史は、このタッグに乗り気ではなかったそうです。
飯塚高史は1989年に、馳浩とともにグルジアでサンボ留学、1991年にはイギリス、ドイツを巡るヨーロッパ遠征も行っています。
新日本プロレスでは多くの所属レスラーが若手時代に海外での武者修行を経験していますが、飯塚高史も例外ではありませんでした。
飯塚高史は、寡黙で地味なキャラクターと言われていました。
ヨーロッパ遠征からの帰国凱旋時に蝶野正洋、橋本真也、武藤敬司、馳浩、佐々木健介といった、当時新日本プロレスでトップクラスの活躍をしていた5人のレスラー達に宣戦布告をします。
しかし、その内容は「何度かやっていつかは勝ちたい」という消極的なものに終始したため、反応は冷ややかなものに終わりました。
この発言は、今では考えられない飯塚高史の内気な性格を象徴していると言えます。
飯塚高史もヒールになる以前に、明確な自己主張をしたことがあります。
2008年3月、G・B・Hを追放されていた天山広吉が、かつての仲間たちから猛攻を加えられていたところへ、飯塚高史が救出に現れたのです。
飯塚高史は天山と「友情タッグ」を結成しました。
飯塚高史は、不器用ながら一定の正義感を示すことができたのです。
翌月、天山と組んで真壁刀義 & 矢野通とのIWGPタッグ王座に挑戦します。
この試合で飯塚高史は、天山に対しスリーパーホールドをかけるという衝撃的な裏切りを行います。
この事件以降、凶暴なキャラクターを、現在に至るまで10年も続けているのです。
飯塚高史は本来、地味で寡黙な苦労人というイメージだったのですが、それは本人にとってコンプレックスだったのかもしれません。
それを打ち破るために、今の猟奇的なキャラクターに行き着いたのでしょう。
まとめ
飯塚高史は、デビュー以来長らく内気で地味な職人レスラーそのものでしたが、2008年のヒール転向以来、自身の殻を破ったように思われます。
ヒール転向後はアイアン・フィンガー・フロム・ヘルでの地獄突きや、レフリー暴行による反則負けを量産していますが、それも飯塚高史なりに自分をさらけ出そうと思った結果なのでしょう。
鈴木軍入り後は、ももいろクローバーZと共演するなど、バラエティにも対応可能であり、いい人の部分はちゃんと残っています。
ヒール転向前のただの内気な「優しくていい人」ではなく、殻を破った自分ならではの「お茶目」も表せる「優しくていい人」ということです。
野上アナを襲った時に、スプレーをかけ、ドラえもんのようなペイントに仕立て上げたことがありますが、あれはユーモアたっぷりでしたね 笑
飯塚高史が入場で会場を大暴れしながら歩き回る姿こそ、究極のファンサービスですし、飯塚高史のいい人っぷりが、最も現れる瞬間かもしれませんね。
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